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寂しいと思うのは・・・ [お寺]

亡くなられた方との別れを 「寂しい」 と思うことはごく当たり前の事なんだと思います。

確かに 今の時代 いつまでも悲しいとか寂しいを引きずっていてはいけないのかもしれません。世の中は前向き 前向き と振り返る勇気も反省もありません。

寂しさは時と共に薄らぐという方もいらっしゃいます。

 でもやっぱり 10年たっても 20年たっても 会えないというのは寂しい事です。

今の時代はこういう感覚をネガティブな物として避けてしまいます。いつまでも寂しさにとらわれてはいけないと「心の癒し」を人は求め、そうする事によって 寂しくない 悲しくない と考えます。

 でも それって 本人が勝手にそう思いこんで納得してるだけでしかないのでは?

亡き人への思いは そんな薄っぺらなものでは無いはずです。


いつまでも寂しいと思っていてはいけないのかもしれません、でも 寂しい と思えるのは亡くなられた方が居てくださった事を自分が大切に思っているからこそではないのでしょうか。
亡くなられた方の御恩に気づかされているから 会えない事を寂しいと思えるのではないでしょうか。

寂しいのは決して悪い事ではありません。何故寂しいのかを考えたとき、そこに大切な一つの命があってくださり、そのたった一人の方にであえた有り難さに気づく事ができるのなら、それは決して無駄にはなりません。

私たちは ひとりでうまれて ひとりでいきている わけでは無いのです。
そういう いのち に出遇っているからこそ、自分の命も人の命も同じ様に大切なのではないでしょうか。

時代に流されて捨ててしまってはいけないものは たくさんあります。見失わない様にしましょう。

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聞法道場での盆法要 [お寺]

とある地域の御門徒の方の依頼で、某所の説教所の盆法要に出講させてもらいました。

学生時代から報恩講の時には案内の方と狭い道を上がったり降りたりし歩き回る古い町です。
今は当時ほどではなく、猫道程度だったものが小型車ならなんとか入れるほど道は良くなりました。

説教所というのは、聞法道場 とか 布教所 と呼ばれるもので、定まった住職は居ないけれども寺院としての機能は持っている地域の集会所の事です。
以前はここにも常駐の管理人さんがいらっしゃいましたが、この春に諸事情で転居されたため今は無人。
宗教法人としての申請はしてない(通らない)ので行政の方からは地域集会所として維持されている様です。

お盆の法要で、この地域の私の寺の御門徒さんだけではないのですが、ほとんどの方は顔見知り。
以前にも御正忌の法座に出講させて頂いたこともあったり、葬儀で来たこともあります。

寺というと 普通は 住職となる僧侶が居て、寺院を開設し、そこへ門徒さんが集まると考える事が多いのですが、地域の方が聞法のために集まり、そのための施設が建ち、常駐する僧侶を招くという寺院の形態もあります。

安芸エリアには私が知っている範囲でも、東広島の近隣有志で設立された寺院、芸予諸島でその集落の一族の人が建てた寺院など決して珍しいものではありません。

現代の都市開教というと、中央から布教師を派遣し、寺院を設立し、そこへ聴聞に集まられるようになる と考える人が多いのですが、そういう物でもないのかもしれません。

在る意味 浄土真宗寺院の特徴です。

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