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子供と子犬 [お寺]

娘はこの春から幼稚園に通うようになり、言葉もしっかりしてきました。
けっこう広島弁もきつくなってきておかしいくらいです。

いっぱいいっぱいしゃべりながら、はしゃぎ回る 走り回る ご飯食べる 泣く ごろごろする
かと思えばいきなり眠くなって爆睡。
やたらと人の側に寄ってくる、何かしてると横にちょこんと座って一生懸命見てる。

子犬みたいだね・・ と笑ってみてます。

この春までうちには16年ちょっと一緒に暮らした小さな犬が居ました。
嬉しいときも辛いときも常に側にいてくれました。

犬は人間の言葉がしゃべれません。でも聞くことはできます。

娘の姿を見て、「あ・・ あいつは こんなに小さな頃はこんな事思ってたんだな」と今になって思い出されます。

娘と同等に考えるのは不謹慎なのかもしれませんが、今になってあらためて、あいつと一緒に生きることができたことが尊く感じます。
嬉しい事です。

宗教の目的 [お寺]

宗教は何のためにあるんでしょうか。

「豊かな人生のため」 「人間として大切だから」 「幸せのため」 「有意義な人生のため」
ごもっともであります。

「立派な人生がおくれる」 「宗教が無ければ人生は虚しい」
たしかにそうかもしれません。 でも 宗教は人生の追加サービスなんでしょうか。

「御利益がある」 「事故にあわない」 「病気にならない」 「病気が治った」 「平和のため」
たしかにそうなるといいですけど、そんな目先の損得のためのものでしょうか。

目的があやふやなままで、自分の行動を評価して満足してるだけでいいのでしょうか。

「今は心が失われかけて殺伐とした世の中になっている、今こそ宗教が必要だ」
それもそうかもしれません。 でも 心の問題 だけ なのでしょうか。

宗教とか信仰とか言いながら、実は自分の目先の満足や損得にしか目が向いてない事も多いです。

宗教は、私たちの一番大切な 今まさに生きているこの「いのち」を見つめる事です。
人ごとでもありませんし、在ってもなくても良いようなものでもありません。

誰にだって命の終わりは確実に来ます。その限りある命を今生きているのです。
命の事をもっと真剣に考えていいのではないでしょうか。

人間万歳ばかり言ってても、肝心な命にはたどりつけません。

浄土真宗の教章 [お寺]

この春から浄土真宗の教章に一部変更がなされました。

所依の経典はあくまでも浄土三部経だと思いますが、正信偈や御和讃や御文章も付け加えられました。
社会実践にばかり目が向いてしまうと、達成感だけ優先されてしまって、大事な足下を見失うような気もします。

社会が人間肯定の自己満足に偏ってしまってる今では、少し心配です。

命は何年たとうが、いきとしいきるものの命の意味を変えるわけではありません。
宗教は自己満足でも知的満足でもその場しのぎや癒しではありません。
今生きているこの命の問題です。 人ごとではありません。

日記増設しました [お寺]

本業の方のHPは最近さぼりがちであります。
本業の方の掲示板を作るつもりはないのですが、放言の場所をちょっと作ってみました。
深刻な話は無しであります。

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